奈良の観光といえば、興福寺の五重塔、東大寺の大仏、奈良公園の鹿が有名ですが、最近は、元興寺の旧境内を中心に広がる近世の面影を残した奈良町も人気です。
中世以降、元興寺の周辺では、筆、墨、蚊帳(かや)、晒(さらし)、醤油などさまざまな産業が発展し、江戸時代には、有力商工業都市として町が形成されました。それらの産業の一つ、晒は、奈良町の多くの人々がその生産、販売に携わりました。
ここでは、一時代を画した奈良の産業、奈良晒について、ご紹介します。
奈良晒とは?
奈良晒とは、近世奈良を中心に生産された麻織物のことで、肌触りがよく、汗もはじくので、鎌倉期以来、神官や僧尼の衣として好まれてきました。
江戸時代になると、裃(かみしも)が武士の正装になりました。裃の素材は、「麻」が正式と決められていました。江戸時代には、その裃用の高級麻織物の産地として、奈良が名高く、特に、奈良晒は、幕府御用品として、その名声をほしいままにしました。
当時、「麻の最上は南都(奈良のこと)なり」と言われるほど、奈良晒の白さと肌触りには定評がありました。
奈良晒について、当時の書物はどのように紹介しているか
当時の書物の中で、奈良晒は紹介されています。特に、詳しく紹介している「和漢三才図絵」「万金産業袋」「楊麻刀名勝誌」の記述をご紹介しましょう。
和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)
江戸時代中期(1712)に編纂された「和漢三才図絵」は、和漢古今にわたる種々の物事を解説した日本の類書(百科事典)です。105巻81冊に及ぶ大著で、三部(三才)に分け、図(挿絵、古地図)を添えて、詳しく解説しています。
奈良晒の項では、「按ずるに曝布、和州奈良より出る布之上品也(中略)細微なること絹の如し、これを煮てつき晒すこと数回、潔白雪の如し」とその手触りの良さと白さを絶賛しています。
万金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)
江戸時代(1732)に編纂された万金産業袋は、江戸時代の商品の政策、製法、産地などを説明した書物です。
奈良晒については、「奈良晒、麻の最上といふは南都也、近国余郷よりもその品数々出れども、染て色よく、著て身にまとわず、汗をはじく、余って知不知の人もかたびらとだにいへば奈良々といふ」と紹介しています。
つまり、奈良晒は上等の布で、色よく染まり、着れば身にまとわりつかずに汗をよくはじく」と誉め、全国的に知られていたことがこれらの記述からもよくわかります。
楊麻刀名勝誌(やまとめいしょうし)
楊麻刀名勝誌は、奈良奉行所の与力、玉井定時とその子孫が表した「庁中漫録(ちょうちゅうまんろく)」のなかの大和、南都に関する地誌です。楊麻刀は当て字で、「やまと」と読ませます。
「般若寺の辺り、佐保川の水清し、この水を以て曝布を洗い、佐保山の上に敷き之を乾かす、日を経るに及び、潔白、佐保山白雪の如し」と干した晒布がだんだんと白くなっていく様子を描いています。
南都随一の産業としての奈良晒
江戸時代の初め、清須美源四郎が晒法を改良、徳川家康に誉められ、幕府の保護を受けて販路が拡大しました。
明暦3年(1657)、奈良町の惣年寄が麻布に検査印「南都改」を押すことになった後、半世紀余が生産の最盛期で、毎年30万疋から40万疋(1疋は2反)の産額で南都随一の産業と言われました。
奈良町の多くの人々がその生産、販売に携わったことが、奉行所に提出した、当時の職業調べの記録からもわかります。
奈良晒が「麻の最上」と言われた理由
日本各地に麻の産地は数多くあるにもかかわらず、奈良晒が、その名声をほしいままにしたのには、いくつかの理由があります。
清須美源四郎の技術革新
鎌倉期以来、奈良では、麻織物が作られていましたが、安土桃山時代の天正年間に、徳川家康に従って戦功のあったという清須美源四郎が従来の晒法に改良を加えて成功したことによって、奈良晒が全国にその名前が知られるようになりました。
厳しい品質統制
江戸時代に入って、徳川家康の上意により、大久保石見守長安が奈良の具足師祝い与左衛門に書状を与え、奈良晒の尺幅を検査し、布の端に「南都改」という朱印を押すことを命じ、その朱印のない晒の売買を禁止しました。朱印が与えられたことによって、幕府の御用品となり、奈良晒の名声が確立します。
さらに、晒される前の生布にも検査を行い、織初めに「極」、織留めに「奈良町年寄」の黒印を押し、黒印のない生布は一切曝してはならないと決められました。
このように、奈良晒は、厳しく品質を統制されたため、粗悪品が出回ることなく、品質が保たれました。
依水園(いすいえん)
東大寺大仏殿の西に依水園があります。依水園は、前園と後園から成り立っていますが、前園は、江戸時代、奈良晒で財を成した清須美家の別邸の庭園として、若草山、高円山などを借景として取り入れた池泉回遊式庭園です。外国人にもとても人気の日本庭園です。
中川政七商店
今や、日本全国にそのファンがいる中川政七商店ですが、1716年、奈良晒黄金期に奈良晒の商いを始めたのが、その始まりです。江戸時代に隆盛を極めた奈良晒ですが、明治以降、武士の消滅ともに、衰退します。
その後、十代目中川政七は、奈良晒の自社工場を持ち、復興に尽力しました。
まとめ
江戸時代にその名声をほしいままにした、奈良晒についてまとめました。明治以降、奈良晒は、衰退の一途を辿りましたが、今、麻が脚光を浴びる中で、奈良晒復興への関心が集まっています。
奈良を訪れることがございましたら、依水園や中川政七商店に、奈良晒の隆盛の足跡を感じ取っていただけたらと思います。
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情報引用元
奈良町:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%BE%E3%81%A1
奈良晒、南都随一の産業としての奈良晒、奈良晒が「麻の最上」と言われた理由:「奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック」(山と渓谷社)
奈良晒:https://sunchi.jp/sunchilist/narayamatokooriyamaikoma/115411
奈良晒について、当時の書物はどのように紹介しているか、南都随一の産業としての奈良晒、清須美源四郎の技術革新、厳しい品質統制:「令和二年度企画展示 麻の最上 奈良晒 -南都随一の産業ー」配布資料
中川政七商店:https://www.nakagawa-masashichi.jp/company/about/history.html