両親は、子どもの名前を悩んで考えますが、名前には、流行り廃りがあります。ちなみに、2019年の男の子の名前は、1位から、蓮(れん)、湊(そう)、陽翔(はると)と続きます。それが、1970年は、健一(けんいち)、誠(まこと)、哲也(てつや)です。1947年だと、清(きよし)、稔(みのる)、博(ひろし)と言いますから、隔世の感があります。付けられる名前は、時代を反映しています。
歴史上の人物の名前でよく見る「○○麻呂(○○まろ)」という名前があります。「麻」つながりで、「○○麻呂」について考えてみました。
「○○麻呂」には、どんな意味があるの?
「○○麻呂」は、近世以前の日本において、公家や貴族などの男子の幼名として付けらた名前です。牛若丸などの「○○丸」と語源は同じです。
もともと、「排泄・排便をする」を意味する「まる・ばる」を語源とするという説が有力で、赤ちゃん用の便器のおまるも、同源です。
かわいい幼子に、わざと汚い名前をつけ、魔物に魅入られないようにとの呪術的意味合いがあったとされています。子どもが幼くして亡くなることが多い時代における、親の愛情を感じます。
万葉歌人たち
万葉集は、奈良時代末期に成立したとされる、日本に現存する最古の和歌集です。全20巻、4500首以上の和歌が収められています。
柿本人麻呂、額田王などが代表的な歌人ですが、これらの皇族、貴族の他、農民や防人などあらゆる階層の人の歌が収められているのが特徴です。
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
柿本人麻呂は、万葉集第一の歌人と言われています。長歌19首、短歌75首が収められています。後世、山部赤人とともに、歌聖と呼ばれ、平安時代になると、三十六歌仙の一人で、「人丸」と表記されることもあります。
東(ひんがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて
かへり見すれば月かたぶきぬ (万葉集1-48)
石麻呂(いはまろ)
万葉集の成立についてはよくわかっていない部分もあるのですが、一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なり、最終的に、大伴家持によってまとめられたと考えられています。
その家持の歌に、
石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻とり食せ (万葉集16-3853)
歌は、「石麻呂という人に申し上げます。夏痩せにいいそうなので、鰻を取って食べてください」という意味です。
この歌は、痩せている石麻呂に家持が「夏なんだし、鰻食べろよ!」と心配して言っている友情の歌と考えることができます。
高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)
万葉集に長歌14首、短歌19首、旋頭歌1首を残していますが、その多くは、「高橋連虫麻呂之歌集中出」の形で収められているので、その範囲には異説があります。
富士の嶺(ね)を 高み畏(かしこ)み 天雲もい行きはばかり たなびくものを
(万葉集3-321)
「富士山は高くて恐れ多いので、雲も行く手を阻まれてたなびいています」という意味です。
奈良時代を築いた貴族たち
奈良時代から続く日本の政治の基礎を築いた藤原不比等の息子を紹介します。
藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)
藤原不比等(ふじわらのふひと)の4人の息子(藤原四兄弟、上から順に武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の長男。藤原四兄弟は、当時の権力を一手に握っていました。
天平9年(737年)、当時流行していた天然痘により死去。天平年間に大流行した天然痘により藤原四兄弟は全員亡くなり、藤原家の勢力は一時的に衰えました。
藤原麻呂(ふじわらのまろ)
藤原不比等の四男で末弟。武智麻呂同様、天然痘で死去。
万葉集の代表的歌人の大伴坂上郎女の恋人として有名で、二人の間で交わされた歌が素敵です。
むしぶすま 柔(なご)やが下に 臥せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも (4-524)
「温かく柔らかい夜具を着て寝てはいるが、あなたと一緒に寝ていないので肌が寒いです」という意味です。
奈良時代後半の混乱、道鏡をめぐる人たち
奈良時代の終わりに第46代、第48代天皇を務めた称徳天皇(孝謙天皇)が寵愛した道鏡(どうきょう)は、僧でありながら、皇位を狙った者として、日本の歴史にその悪名を馳せています。
和気清麻呂(わけのきよまろ)
称徳天皇からの寵愛を受けていた道鏡は、皇位を狙い、「道鏡を皇位に就かせるなら、国は安泰」とする、嘘の宇佐八幡宮のお告げを奏上させます。
天皇は、真相を確認するため、和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣します。道鏡の奏上が嘘であると報告した清麻呂は、道鏡の怒りを買い、足の腱を斬られて流罪になりますが、後に復権します。
橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)
橘諸兄の子。藤原仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集め、藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃位を企てましたが、密告により露見して未遂に終わりました(橘奈良麻呂の乱)。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)
藤原武智麻呂の次男。後に改名し、恵美押勝(えみのおしかつ)と名乗ります。権力の頂点にいた彼ですが、道鏡の台頭などにより失権することを恐れ、軍事力で政権を奪取しよう(恵美押勝の乱)としましたが失敗し、以後、孝謙天皇と道鏡の政権が続きました。
橘奈良麻呂を失脚させた彼が、その後の乱に失敗し、失脚していくというのは、歴史の皮肉というか必然というか。混沌とした奈良時代後半を象徴しています。
遣唐留学生や征夷大将軍
他にも有名な「○○麻呂」さんがいますよ!ご紹介しましょう!
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
阿倍仲麻呂は、奈良時代の遣唐留学生。第9次遣唐使として、吉備真備らと唐に渡りました。唐での科挙に合格し、唐の玄宗皇帝に仕えました。唐の詩人李白らと交流を持ちました。帰国の船が嵐に会って唐に戻ったり、その後、帰国を希望しながらかなわなかったりで、帰国を断念し、唐で客死しました。
天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも
百人一首で有名なこの句は、阿倍仲麻呂の句です。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
平安時代の公卿で武官。桓武天皇により征夷大将軍に任命され、二度、蝦夷征討しています。「私が死んだときは、体に鎧と甲を付け、手には太刀を握らせ、立ったまま埋葬してほしい。そして御所の見えるところに埋めてほしい」と遺言しました。
2007年、京都市山科区の西野山古墳が坂上田村麻呂の墓だと確認されました。
まとめ
「麻」つながりから、歴史上の「○○麻呂」さんを集めてみました。直接、麻そのものとは関係ない横道でしたが、ちょっと一息。日本の歴史の一端を覗いてみました。
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情報引用元
赤ちゃんの名前年別ランキング:http://www.tonsuke.com/nebin.html
https://hugkum.sho.jp/118206
柿本人麻呂:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82
石麻呂:https://intojapanwaraku.com/culture/18453/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86#:~:text=%E3%80%8C%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86%E3%80%8D%EF%BC%88%E3%81%BE%E3%82%93%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%86,%EF%BC%88%E4%B8%87%E8%91%89%E4%BB%AE%E5%90%8D%E3%82%92%E5%90%AB%E3%82%80%EF%BC%89%E3%80%82
藤原武智麻呂:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%AD%A6%E6%99%BA%E9%BA%BB%E5%91%82
藤原麻呂:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%BA%BB%E5%91%82
https://smcb.jp/diaries/2600254
道鏡:https://www.touken-world.jp/tips/44315/
和気清麻呂:http://www.usajinguu.com/wake/
橘奈良麻呂:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%A5%88%E8%89%AF%E9%BA%BB%E5%91%82%E3%81%AE%E4%B9%B1
藤原仲麻呂:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82%E3%81%AE%E4%B9%B1
阿倍仲麻呂:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%80%8D%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82