イギリスは世界初の大麻由来の医薬品ナビキシモルス(商標名:サティベックス)が開発された国。本稿ではこの医薬品開発の土壌を作った英国人女性エリザベス・ブライスについてご紹介します。
大麻医療の新たなマイルストーン
ナビキシモルス(商標名:サティベックス)は、脳、脊髄、視神経などの中枢神経が炎症によって侵される難病「多発性硬化症」の症状緩和に用いられる、大麻を原料にした医薬品です。2000年代に入り英国で完成し、2005年にカナダで承認されたのを皮切りに現在では30か国以上で使われています。
この病気は体のあちこちに炎症を起こし、患者の痛みや手足の突っ張り、過活動膀胱などの症状が起こります。炎症がおさまった後に傷あとが硬くなるため多発性硬化症と呼ばれています。英語の「multiple sclerosis」の頭文字をとって、MSと呼ばれることもます。
これらの辛い症状を改善してくれるナビキシモルス開発の影には、医療関係者ではない一人の
MS患者、エリザベス・ブライスの生涯をかけた活動がありました。
二児の母ブライスと大麻の出会い
名門オックスフォード大学で古典を学び、テレビ番組のプロデューサーとして働いていたエリザベス・ブライスは、1980年代に26歳で多発性硬化症(MS)の診断を受けました。最初は軽度の症状に悩まされるだけでしたが、次第に眠れなくなり、視力も低下し疲労感の度合いも増していきました。結婚し二児の母でもあった彼女は、このままの状態で子育てを続けることができるのだろうかと悩みます。
そして1991 年、ブライスは多発性硬化症と大麻の関係について書かれた米国の医学記事に巡り会い、大麻の治療薬としての可能性に心を惹かれます。
当時、大麻は麻薬として違法薬物扱い定されていたため医学研究は進んでいない状態でした。しかし既存のMS用治療薬に効果を感じることができず、体へのダメージも大きすぎると感じていた彼女はリサーチを重ねた上、大麻を試してみても何も失うことはないだろうという結論に達します。彼女が専門知識を求め相談した医師も大麻が、彼女が現在使用している薬より安全である可能性が高いことを示唆しました。
思い切って大麻を違法に入手した彼女は、すぐに身体の症状が緩和され、脊椎と膀胱の緊張が緩和されてよく眠ることができ、数年ぶりに体が楽になったことを実感したのです。
しかし大麻は薬物乱用と関連付けて考えられ「危険でネガティブなもの」というイメージが定着していました。大麻喫煙のサブカルチャーは英国を風靡しましたが、1950年代から60年代にかけてのビート世代、70年代のヒッピー世代へとうつり、80年代には第二次世界大戦以来最悪と言われる失業率の高さや犯罪と関連づけて考えられていたのです。
家族を守るためペンネームで活動開始
自らの体験をもとに大麻医療の可能性を確信した彼女は、当時人々が抱いていた大麻へのダークなイメージを考慮し、家族を守るために「クレア・ホッジス」という偽名で大麻治療推進活動を始めました。
もともと熟練した書き手であり、テレビ業界で働いていた経験もある彼女は、メディアの関心を集め効果的なキャンペーンを行うすべを心得ていました。
米国の医学記事に出会ってからほんの1年後の1992 年の夏までに、彼女は最初のラジオインタビューに出演し、全国的キャンペーンを開始しました。彼女は最初、これらの活動を個人的なプロジェクトと見なしていましたが、1992 年末には、米国の大麻治療同盟(=ACT=Alliance for Cannabis Therapeutics・1981設立)と協力し 、彼らのサポートを得ることに成功しました。そして1993年に入りブライスは ACTの英国支部を設立し、彼女の広報活動はさらに拡大して行ったのです。
その後 7 年間、ブライスは大手新聞ガーディアンをはじめとする新聞に寄稿したりテレビの積極的に出演したりと大麻の医療利用についてメディア向けの広報作戦を指揮します。
また国会議員オースティン・ミッチェルの支援を受け、庶民院、貴族院、欧州議会にも出席しました。これは医師ではなく患者主導で成功したキャンペーンの珍しい例であり、医学研究に実際的かつ理論的な影響をもたらしたといわれています。
このようにしてエリザベス・ブライスとACT英国支部の働きかけにより医療用大麻の使用へのマイナスイメージが徐々に払拭されていき、大麻抽出物とそれに続くナビキシモルスの開発を促す土壌を耕していったのです。
ブライスの残した遺産
彼女の病気は歳を追うごとに着実に悪化していきましたが、それでもACTでの活動のかたわらに大学で宗教学を学んだり読書グループを主宰したりと、文学への愛を失わなかったといいます。そして2011 年にブライスは惜しまれながら54歳でこの世を去ります。
2018年、彼女の活動は英ブリストル大学の歴史学生ジョナサン・デ・オリベイラによって調査研究され『悪魔の薬は天使の翼を生むのか?』という題名の論文として発表されました。
オリベイラは英国初となる大麻の大規模臨床試験は、ブライスに尽力なしでは実現しなかったと結論づけています。
ACT 英国支部を通じた彼女の多くの活動や、大麻入手の困難さに悩む多発性硬化症患者との彼女のやりとりは現在、英国ロンドンのウェルカム・トラスト(※)の医学図書館で閲覧することができます。
※ウェルカム・トラスト(The Welcome Trust)は1936年に設立、英国ロンドンに本拠地を置く医学研究支援等を目的とする慈善団体のこと。
大麻製剤の開発はなおも続く
英国のGW ファーマシューティカルズ社が開発したナビキシモルス(商標名:サティベックス)は、大麻由来成分カンナビノイドのうちの2つ、テトラヒドロカンナビノール(THC)とカンナビジオール(CBD)が原料となっており、口腔内にスプレーして服用します。
これらのカンナビノイドのブレンドが体内でカンナビノイド受容体に作用することにより、モルヒネ のような他の鎮痛剤とは異なる作用を介して効果を発揮するのです。
GW製薬は2005年にカナダにおいて、「多発性硬化症に伴う神経因性の疼痛治療(上乗せ投与)」として承認され、ドイツに本拠地を置く多国籍企業バイエル社が販売を行っています。
多発性硬化症(MS)の治療薬として開発されたナビキシモルスですが、がんによる疼痛も緩和できるとして臨床や承認への手続きが進行中です。
GW製薬の子会社にあたるグリニッジ・バイオサイエンス社(米国カリフォルニア州)からも、難治性のてんかんであるレノックス・ガストー症候群やドラベ症候群に対する大麻由来の製剤エピディオレックスも開発されました。大麻治療は、臨床研究の結果がまだ少ないものの、糖尿病や薬物依存症、うつ病やがん等の治療にも応用できるとして、現在各国で研究が進められています。
ほかにも近年は大麻成分が痛み止めやリラックス、不眠などに効果が見られることが一般にも知られるようになり、大麻成分の中でも合法で副作用も少ないカンナビノイド「カンナビジオール(CBD)」をサプリ的に利用する人も増えました。
ブライスと大麻の出会いがなければ、マイナスイメージが払拭されず、医療大麻の進歩はここまで急速に進まなかったかもしれません。
現在の大麻ブーム=グリーンラッシュの影にエリザベス・ブライスと米国・英国ACTの活動あり。彼らの尽力に、惜しみない拍手を送りたいものです。
参考資料
Jonathan De Oliveira The ‘Devil drug […] sprouting angel’s wings’? An analysis of the UK Alliance for Cannabis Therapeutics’ use of patient identities to medicalize portrayals and perceptions of cannabis in the 1990s
ガーディアン紙
https://www.theguardian.com/society/2011/sep/20/elizabeth-brice-obituary